知多半島の山車彫刻  
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山車彫刻

 

「山車彫刻」
■建築における装飾彫刻
■山車彫刻の流れ
■彫物師の系譜
 ・立川一門
 └ その他の立川流
 ・彫長一門
 ・瀬川一門
 ・その他の彫刻師

 

 〔瀬川一門〕

 初代瀬川治助

 名は重定(貞)。安永中(一七七〇)頃生まれる。寺院、神社の堂塔の装飾彫刻を業としたとあるから、本業は堂宮彫物師であったろう。早瀬長兵衛が藩御用彫刻師であったのに対して瀬川治助は町方彫刻師であった。庶民派の彫物師として山車彫刻を多く手がけた。
 天明二年(一七八二)建造、明治十三年(一八八〇)改造した東海市大田荒古組の山車、高欄下の彫刻に「瀬川治助重定」と墨書されている。横須賀大門組の山車には「尾州名護屋彫物師瀬川佐(治か)助藤原重貞作」とある。知多市岡田中組の山車の前台裏に「文化十一年二八一四)瀬川治助重定(花押)」とある。中組の檀箱彫刻は「唐獅子と力神」である。
 初代瀬川治助の山車彫刻は数が少ないが、漆塗りの古い山車の彫刻を手がけていたことがわかる。
 嘉永三年(一八五〇)七十余歳で没す。 △上へ

 二代瀬川治助

 初代瀬川治助の子として文政初め(一八二〇)頃に生まれる。名は重光。
 天保十二年(一八四一)名古屋末広町の若宮祭の「黒船車」の高欄下にある浪模様と舳先の惧利加羅竜に紫檀の彫物を残す。文政十年に改造した東海市大田の黒口組山車、高欄下の彫刻に重光の名がある。知多市岡田里組の堂山柱に「文久三年(一八六三)七月尾州参雲堂瀬川重光作」の墨書があり、二代治助が参雲堂と号した貴重な資料である。
 元治二年(一八六五)亀崎宮本車の檀箱「龍虎」を造る。この宮本車より譲り受けたという協和砂子組白山車の前山縣魚「龍」と鬼板に二代瀬川治助重光の墨書がみられる。他に成岩南車の脇障子、西成岩敬神車の檀箱「源三位頼政鵺退治」、板山旭車の脇障子、武豊町富貴の檀箱「唐獅子牡丹」、阿久比町宮津南車の檀箱と脇障子、大府市横根の山車が重光の作である。いずれも幕末から明治にかけて作られた。
 二代治助重光の作品は、彫刻が繊細で鑿痕も鋭い。だが檀箱などの彫刻になると、その細かさが禍いし全体的に重量感が乏しく見劣りする。欄間彫りが主流であったためであろうか。
 明治二十一年(一八八八)没す。七十余歳。
 その他の瀬川一門の彫物師としては、重光の後に瀬川鍋三郎の名がみえる。 △上へ

 
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