知多半島の山車  
前のページへ 次のページへ  【知多半島の風トップへ】
山車まつり

 

「山車まつり」
■大府市
■阿久比町
■半田市
■武豊町
■美浜町
■南知多町
■常滑市
■知多市
■東海市
■夏祭りは「女のまつり」

 

■常滑市の山車まつり

 春の訪れとともに常滑の山車祭りは南の端の坂井より、小鈴谷、大谷へ、さらに旧常滑から五月の大野祭りまでつづく。それぞれに古い伝統と歴史を今に残している。

 (坂井)
 野間との境界にあるため坂井村といった。東光寺開山堂前に眠る旧車は寛政五年(一七九二)二月に建造されたことがわかっている。知多半島の片田舎の小村で、江戸の中頃より現代にまで綿々と山車祭りが引継がれてきたことは驚くほかない。

 (小鈴谷)
 「ねのひ」の盛田酒造で知られる小鈴谷でも白山社に山車が一台奉納される。春にしてはまだ肌寒い潮風吹く中を山車は練る。山車は大正七年(一九一八)に横松より購入されたという。

 (大谷)
 大谷の山車は古い。宝暦五年以前すでに山車が村内を練っていた。その山車か、それ以後に再造された山車かわからぬが、大足の蛇車や布土の平田組の山車が大谷の旧車といわれる。
 現在の山車は、当時名人といわれた諏訪の和四郎が亀崎に滞在していると聞き、村の代表が亀崎まで出かけ山車の建造を依頼したという。建造代金は山から薪木を伐りだして充てたとの伝承を残す。
 半田や亀崎は醸造や海運で繁栄した村であったから豪華な山車を建造しても困らなかったが、大谷や上野間にも同型の山車が同時代に造られたことは、それだけ大谷が祭好きな土地柄であったのだろうか。
 浜条蓮莱車は天保十一年(一八四〇)に古い山車を大足村へ売り、十三年に横松の岸幕善兵衛によって再造された。彫物は立川一門の昌敬の手による。
 明治の初めに布土村平田組は大谷より山車を購入したとの伝えを残すが、奥条車桜車の旧車であろう。ただ蓮莱車と東桜車では山車が違い、建造年代が異なると思われる。

 (常滑)
 桜並木のつづく常石神社を山車が通る風景は春爛漫の祭りに似合う。常滑祭りとして山車が登場するようになったのは明治になってからのことである。
 神明車は明治四十一年に高横須賀の南脇組より購入したもので、外輪式の山車である。古い山車であったため昭和三十八年に現在の山車を再造した。
 世楽車は明治十年に富貴村より購入したと伝う。後に大井村に売却し、改めて上半田より購入したという。このあたりの山車売買が山車全体をいうのか、彫刻、台輪など一部だけなのか、からくり人形をいうのか定かでない。資料も乏しく、主に口伝によるものが多く、詳細な追跡調査をしていると、ひとつの山車が同じ時期に別の場所で曳き回されていることになりかねない。
 常石車は明治四十五年に、保楽車、常磐車、常山車はいずれも大正になって建造された山車である。大正に入って常滑で山車祭が盛んに競いあったことがわかる。

 (多屋)
 平成元年の春祭りに山車祭りが復活することとなった。

 (西之口)
 大野の橋詰組より古い山車を購入したが、現在は山車祭りは休止されている。

 (小倉)
 小倉天神社の祭礼で、かってはからくり人形の乗った山車が曳き回されていたが、現在は休止されている。山車は残存する。

 (大野)
 大野祭りに登場する山車は典型的な、からくり人形の演舞を主とした名古屋型山車である。大野の町に歴史があるように、山車の歴史も深い。
 高須賀唐子車は寛保元年(一七四一)八月に建造された。さらに天明四年(一七八四)八月に大修復されている。
 十王町は十王堂があるところから付けられた町名である。その十王町梅栄車は、天明五年から六年かけて建造された。嘉永六年(一八五三)に総費用五七五両余もの、当時としては莫大な大金が投じられて再造された。
 橋詰の紅葉車は文久三年(一八六三)建造された山車で、旧車は隣村の西之口村に譲る。それ以前にも山車が存在したことが知れるが、古文書類が消失したため定かでない。

 
<前のページへ 次のページへ>
10

-8-