知多半島の山車彫刻  
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山車彫刻

 

「山車彫刻」
■建築における装飾彫刻
■山車彫刻の流れ
■彫物師の系譜
 ・立川一門
 └ その他の立川流
 ・彫長一門
 ・瀬川一門
 ・その他の彫刻師

 

 〔その他の彫物師〕

 野々垣清太郎

 明治四十年(一九〇七)に西成岩敬神車の持送り「力神」を野々垣清太郎が作っている。熱田の尾頭町の彫清のことであろう。以前、道場法師で知られた元興寺や尾頭塚を取材した時に、名鉄金山橋駅近くで「彫清」の看板を目にした記憶がある。
 明治四十三年(一九一〇)桑名市田町の祭車に「榊に鶏」「阿吽の虎」を彫った二代彫清こと野々垣清三郎がいる。同年代から清太郎と清三郎は同一人物で、どちらかが間違いか、兄弟かとも思われる。
 野々垣の名には文化十四年(一八一七)頃に野々垣太兵衛。四日市市福泉寺本堂の欄間彫刻に、天保十年二八三九)桑名住、野々垣兵介の名がある。また野々垣(早瀬)重兵衛の名もみられる。いずれも同系統の彫物師であろう。 △上へ

 彫雲堂勝蔵

 常滑市大野町十王町の山車は嘉永元年(一八四八)に新しく造替えされたが、その総費用五百七十五両余の内「金三十六両二分車彫物、長者町彫雲堂勝蔵」とあり、当時、長者町(名古屋市中区)に彫雲堂勝蔵いう彫物師がいたことが知れる。 △上へ

 出羽看龍

 岩滑八幡車の檀箱「猪と仁田四郎、虎と和藤内」、脇障子「節分」は明治初め(一八七〇)頃、出羽看龍の作という。出羽看龍については定かなことはわかっていない。全国を道具箱持参で旅する渡り職人だろうという。 △上へ

 竹内久一

 亀崎青龍車の檀箱「風伯神雷電神雲龍」と蹴込「牡丹と橋」は、高村光雲とともに近代彫刻家として並び称された竹内久一の作である。
 竹内久一は岡倉天心やワェノロサの勧めで東京美術学校の木彫科最初の教授となる。当時、東京で彫物師をしていた高村光雲を同じ教授として推挙したのは久一である。木彫科の教授には関東彫りとして山車彫刻も手がけていた石川光明もいる。
 よき指導者と運に恵まれれば、職人としての彫物師も芸術家への道が開けたのである。 △上へ

 増井時三郎

 浜松の彫物師で名人として知られる。阿久比町宮津北車の檀箱「大江山鬼退治」と脇障子を彫る。同じ浜松の後藤岩五郎の名もみえる。浜松の祭りには五十台近い山車彫刻で飾られた山車が勢揃いする。祭りは好きな土地には、よき彫物師が育つ。 △上へ

 岸幕善兵衛

 阿久比町横松は昔より「萩左官に横松大工」といわれたように、大工が多く出た村である。『尾張行記』に 「農夫ノ外外ニニ工モ廿人ホトアリテ、近辺ニテハ半田乙川亀崎アタリヘ傭レユキ又ハ三州辺ヘモユクトナリ、堂閣ヲ経営スルホトノ良工モアリ」とあるように秀れた大工を輩出した。中でも岸幕一門は、知多地方の堂宮大工として確固たる地位を築いていた。棟梁は代々善兵衛を世襲する。
 武豊町大足の夏祭に登場する蛇車に、寛政八年(一七九六)岸幕善兵衛の名がある。この山車は常滑市大谷より購入したものである。天保十三年に大谷村では立川昌敬により新しい山車を建造している。その時に旧車を大足村に売却したものであろう。
 古い山車は山車本体から彫刻まで岸幕一門で手がけていたものであろう。亀崎力神車を立川和四郎富昌が建造した時に山車本体の制作は岸幕一門があたっている。
 江戸時代から明治初めにかけての山車は岸幕一門で造ったものが多い。また一族から立川流彫刻に魅かれて彫物師として名を残す岸幕角三郎がいる。 △上へ

 江原新助

 横松村で岸幕家とともに堂宮大工として活躍したのが江原一門である。明治二十七年(一八九四)堀田稲荷舞殿新築工事で江原新助が提出した履歴書によれば「其昔祖先ヨリ十二代ノ間連続大工職ニ従事ス」とある。
 幕末の頃の江原一門の棟梁は庄蔵であった。主に神社造営に力を入れていたようで、天保十四年(一八四三)に角岡村八幡宮造営にその名がみえる。明治元年(一八六八)の武豊町富貴の山車建造には、庄蔵は一門の幸助、新助を率いて仕事をしている。
 江原一門の中では新助が有名である。安政二年(一八五五)為蔵の三男として生まれる。母は三代岸幕善兵衛の長女である。明治、大正にかけての山車建造のほとんどが江原新助による。山車本体は江原一門が、彫刻は彫常一門が請け負ったのである。 △上へ

 江原芳兵衛

 江原新助の弟子に芳兵衛がいる。横松出身だが、後に乙川に居を構える。明治二十七年(一八九四)新助が亀崎青龍車造替えの時に門弟として従事する。乙川はじめ数多くの山車を手がけている。
 終生、新助を師と仰ぎ精進つづけたという。新助が匠号を「宗春」と名乗ったのにならい、「宗重」と称す。昭和四十五年(一九七〇)九十二歳の長寿を全うする。 △上へ

 

 
文・本美信聿 (郷土史研究家)

総合文芸誌「ゆうとぴあ」に参加執筆されている本美 信聿様のご厚意により、公開させていただきました。
 

 
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