知多半島の山車彫刻  
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山車彫刻

 

「山車彫刻」
■建築における装飾彫刻
■山車彫刻の流れ
■彫物師の系譜
 ・立川一門
 └ その他の立川流
 ・彫長一門
 ・瀬川一門
 ・その他の彫刻師

 

 〔彫長一門〕

 六代早瀬長兵衛

 尾張藩御用彫刻師の早瀬長兵衛は、元は岐阜で桶屋を営んでいた。ここは立川和四郎と似る。名古屋に移住し宮大工となる。彫長の名が名人として全国に知られるにいたるのは、六代早瀬長兵衛吉政の時である。
 文化二年(一八〇五)名古屋の宮大工伊藤平左衛門の配下として六代長兵衛は東本願寺別院改築工事で腕をふるう。彫物としては「巻き龍」を得意としたという。作風は大隅流(関東系)や関西系の彫刻に属さない、尾張流ともいうべき独自の彫刻を残す。
 彫長一門の山車彫刻は数少ない。文政二年(一八〇五)亀崎宮本車の前山虹梁や、知多市南粕谷(亀崎花王車の旧車)があるにすぎない。立川和四郎以前の漆塗り山車の彫刻にみられるかもしれない。だが社寺には彼の優れた作品を残している。乙川八幡社本殿はその代表的なものの一つである。 △上へ

 八代早瀬長兵衛

 六代彫長の孫にあたる。本名を元兵衛、木龍堂と号す。幕末から明治にかけて山車彫刻や神社仏閣の装飾彫刻を手がける。亀崎青龍車の持送り「波」と台輪の象鼻は華麗にして豪華で見事なものである。
 八代長兵衛には秀れた弟子も多い。名人彫常も彼の弟子にあたる。亀崎青龍車脇障子の「日本武尊と須佐之男命」は伊藤松次郎則光の作で、彫常の兄弟子になる。山車彫刻の棟梁としてではなく、彫長らの下で働き、よく出てくる名に、名古屋裏町の彫師仲蔵がいる。彼は六代彫長の弟子で、下半田護王車を譲り受けた美浜町布土上組の山車に名がある。この山車は、主体の彫刻は立川和四郎が手がけているが、細かい彫物は彫長による。和四郎(三代か)の下で彫長が働いたとすれば興味深い。この山車の鮮魚「鳳凰に紅葉」と鬼板「松」に仲蔵の名がある。
 武豊町鳳凰車に彫物師乙川立川鬼子郎の下に仲蔵の名
がみえる。さらに鉄之助、長三郎、信次郎とつづく。いずれも彫長一門の若き彫物師であったろう。仲蔵も含めて、彼らが彫長の名で、各地の神社仏閣の装飾を手がけている。名もなき彫刻師たちであった。
 彫長一門としては、桑名の祭車に早瀬景雲の名がみえる。阿久比町萩の山車は初代彫常を棟梁に岩田冬根、二代彫常に加えて、彫長一門で後に日展作家になった江藤丈平も手伝っている。
 八代彫長こと早瀬元兵衛はよき弟子に恵まれ、大正十三年二九二四)二月に没す。八十二歳。 △上へ

 初代彫常

 彫常こと新美常次郎は明治九年(一八七六)六月十日半田村の船大工伝蔵の次男として生まれる。当時、時代の推移で昔ながらの木造船は廃れつつあった。兄の岩次郎は名古屋市の堂宮大工の名門伊藤平左衛門の下で働く。常次郎も地元の南画家山本梅荘の推めもあり、伊藤平左衛門の紹介で、尾張一の彫物師早瀬長兵衛に弟子入
りする。十四歳の時である。
 十年の修業を終え、一人前の彫物師となった常次郎は師彫長の代理として全国の堂宮建築に出張するようになる。世帯をもって五、六年名古屋に居住したが、後に半田に帰郷し、ここを拠点として彫刻師の看板を掲げる。当初は、彫常の名は地元でも無名であったため、師の彫長に懇願して、半田の旦那衆方に、自分に劣らない彫物師であることを説いてもらう。以後地元より彫物の注文がくるようになったという。
 明治四十二年(一九〇九)よりの京都東本願寺改築工事では師に代わり腕をふるう。彫常の名は彫物師仲間に知られるようになった。大正から昭和の初めにかけてがもっとも多忙の時期で、養子となった二代目彫常が子供の頃、夜寝覚めてっみると、いつも作業場に明かりが灯り、父がコツコツと仕事をしていたという。子供心に親父はいつ寝るのだろうかと不思議に思った。作業場には、仕事途中の山車の檀箱がいつも五つほど置かれ、その間で寝ていた。彫常は心からの仕事のムシである。
 彫常が山車彫刻を手がけるようになったのは、亀崎の山車を彫長一門で修理した時のことである。立川流の華麗にして重厚な彫物に接し、彫物師として開眼するところがあった。
 半田、常滑、阿久比、武豊らの山車の悉くが、何らかの形で彫常、または彫常一門の手が加えられている。その数は膨大な量になる。その中でも、下半田中組祝鳩車の彫刻は彫常の最高傑作といえよう。
 山車彫刻の他に、京都東本願寺はじめ、福井永平寺、長野善光寺仁王門、岩手志和神社拝殿、東京東郷寺から地元の名刹常楽寺、無量寿寺などに及ぶ全国各地の堂宮建築にも鑿痕を残していることを忘れてはならない。
 彫常の彫刻の特徴は、尾張派ともいうべき彫長流の彫を基礎にして、立川流を踏襲した江戸時代の様式を自己流に現在に再現したことにある。山車彫刻にするとそれがより映えた。大正期や戦後の山車建造ブームは彫常の彫刻の見事さがその一役を担ったものだ。現在の知多半島の山車まつりが隆盛をみるのは彫常の功績といって過言ではない。県内外より昭和の名人彫常に称賛の声は高い。
 彫常は画人、書家としても秀れ、正池、金鉋の雅号を残す。下半田東組山王車の水引「松に鷹」、西成岩西組敬神車水引「波と飛龍」は彫常の下絵による。山車彫刻の殆どにも見事な下絵を描いている。
 彫常の信念は「死ぬまで修行」であったという。その言葉どおり、最後まで仕事のムシとして修練を積む。昭和三十一年(一九五六)八十一歳の天寿を全うした。墓は、故郷半田を一望に眺める高台、半田市営墓地にある。 △上へ

 二代彫常

 本名を新美茂登司という。明治四拾五年(一九一二)半田に生まれる。彫常の弟の子で甥にあたり、四歳の時に彫常の養子となる。子供の頃より彫常の仕事場が遊び場であった。
 父彫常は名人であったが、二代彫常や弟子にこれといった彫物の手解きはしなかった。仕事は自らの体で覚えろというのが指導方針であったようだ。そんな父に飽き足らず、多感な十八歳の二代彫常は他での修業を訴え、東京の大隅流名門小松光重の門に入る。三年の修業のほとんどが身延山に籠り、ここでの装飾彫刻に携わる。
 東京での修業を終え半田に帰郷する。兄弟子にあたる岩田冬根とともに彫常の手足となって、各地の山車彫刻や堂宮建築の彫刻を手がける。
 山車彫刻としては初代彫常の名に隠れて目立たないが、父に代わって彫ったものも多い。下半田南組護王車蹴込「三笑」、東組山王車蹴込「竹林に虎」はじめ数あるが、武豊町市原の力神は亀崎力神車を再現した傑作である。
 二代彫常は研究心旺盛である。彫物に限らず、絵画、書物などの諸知識にも造詣が深い。モノを視る眼、鑑識眼は鋭く確かである。体験してきた人の語る言葉は重く貴重だ。私たちは彼の言葉にもっと耳する必要があろう。人格も円満で穏やかだ。護王車「三笑」の子犬の彫刻など見ていて微笑ましい。
 いまや地元では山車彫刻の修理には、数少ない彫物師として、なくてはならない人だ。それだけに長生きしてほしいものだ。
 娘の新美記代子は現代人形作家として活躍中である。親の血はあらそえない。 △上へ

 岩田冬根

 岩田冬根(とね)は名人彫常の一番弟子である。本名を新之助という。名古屋に生まれ、十二歳の時に彫常に師事。彫常の右腕として、時には彫常に代わって山車彫刻らを彫っている。
 西成岩彦洲組日之出車の蹴込「唐獅子牡丹」や阿久比町宮津南車蹴込「乱獅子」などの山車彫刻がある。桑名市の石取祭の祭車の彫刻は岩田冬根のものが多数ある。
 岩田冬根の彫刻の題材をみると、桃太郎、浦島太郎などの「御伽草子」と、新田義貞、楠正成らの「日本史名場面」が多い。作風は気負うところがなく、彫物の題材などからみても庶民感覚の職人的彫物師であったようだ。
 岩田冬根の名は桑名はじめ地元をはなれたところで高い。有名な名古屋大須観音の仁王像は彼の作である。昭和五十六年(一九八一)八十六歳という長寿で亡くなる。
 現在、武豊町在住の冬根の次女、榊原絹子(号冬花)が父の遺業を継いでいる。武豊町下門の山車の蹴込「老松と鳩」を彫っている。 △上へ

 
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