信孝無念の自害

今にも雨がきそうな陰鬱な空模様であった。

織田信孝は書院の中庭を虚ろな表情で眺めていた。岐阜城を棄て、知多半島の野間大御堂寺の持蓮坊に幽閉されたのだ。ここまで従ってきた太田牛一も憔悴した主人に慰めの言葉も憚られた。

薄明かりに見える細面の横顔は、信長さまの若き面影に生き写しだと牛一は思った。

激しい気性と知勇をそなえたところは信長さまと変らぬ。他人を寄せつけぬ覇気が信長さまには全身から奔しっていた。惜しいかな信孝さまにはそれがない。信長さまが光秀の謀叛に非業の最後を遂げて早や一年が経んとする。短い月日に世はかくも変るものか。いまや羽柴秀吉が天下人たらんとしている。誰もが秀吉に靡く呆れた様よ。信孝さまもまったく運に見離されたお方じゃ。牛一は同情の眼差しをなげかけ嘆息した。

「信雄殿とてお兄弟のこと。決して悪いようにはいたさないでございましょう」

「何? 信雄がいかがしたと」

信孝は生気ある顔を取り戻して振り返った。

永禄元年(一五五八)春、清洲城内は織田信長の御子誕生の祝いにわいていた。さらにもう一人信長さまに御子が生まれたと熱田の神官岡本太郎右衛門が参じて告げた。

信長は一瞬訝しげに首を傾げたが「おお、坂氏の娘か」と頷いた。

先の子は次男で茶筅といい信雄となる。先に生まれはしたが、二十日も信長への報告が遅れ、妾腹の子ゆえ三男とされた。三月七日生まれから三七と名づけられる。信孝である。

信孝と信雄は生まれた時から宿敵となる運命にあった。

永禄十一年、信孝は北伊勢調略のため神戸具盛の養子に出された。翌年には信雄が伊勢国司北畠氏の養子となる。領地も接し、数々の合戦に手柄を競いあう。信雄は愚鈍ですべてを家臣まかせ。激しい気性を父から受け継いだ信孝は戦功をあげ、力量の差は歴然たるものがあった。だがいかんせん、織田家においての序列は絶えず信雄が信孝の上にいた。

信雄が信長の命に背いて、伊勢に兵を出し重臣を失う手痛い敗北を喫する。信長は激怒し折檻状を突き付け謹慎を申しつけた。

信雄の失態に北叟笑んだ信孝に吉報が届いた。四国征伐の総大将に命じられたのだ。やっと信雄を越えたと喜んだ矢先、本能寺で信長討たるの悲報。織田一族ではあったが光秀の女婿の信澄を攻め落とし、秀吉軍と合流して山崎合戦で明智光秀を討ちとる。

一方、信雄は日頃の暗愚から為す術もなく時が過ぎ、明智勢が敗れた後に安土城下に押し寄せた。

折しも京より逃れてきた明智の残党に驚きうろたえ、城下に火を放つ。信長が築いた名城の安土城は紅蓮の炎につつまれ焼けおちたのである。

信長の跡目相続に織田家の重臣は明智を討った信長似の信孝を推した。だが秀吉は二条城で討死した信忠の遺児三法師を正統の継嗣者であると主張した。一同は秀吉の威圧に恐れをなし従う。

元はといえば織田家の足軽であった秀吉の下風につくことを潔しとしない信孝は、柴田勝家、滝川一益らと秀吉討伐の兵をあげたが敗れる。岐阜城で死を覚悟したが諌められ、城を落ち野間に移されたのである。

愈々雨が降りだした。

長圓和尚が少しでも気分が変るかと気遣い梅の絵を床の間に掛けた。牛一は若い和尚に自分の姿を見た。牛一も元はといえば寺住の僧であった。若き頃信長に見出され仕えたのである。

その時、信雄の使者中川勘右衛門が慌ただしく駆けつけた。長浜城に人質となっていた信孝の母と乳母が磔に処されたという。秀吉の意向を思計って、信孝にお腹を召されと諭す。

元より覚悟の信孝は、身を浄め白装束に着替えた。鬱積したものが除かれ、さばさばした表情で床の間に向って座した。

「茶筅(信雄)も秀吉の傀儡でいる己れの姿に気づかぬのか。織田家の行末が案じられるわ」

昔より主を討つ身(内海)の野間なれば

むくいをまてや羽柴筑前

母衣の布を破り辞世の歌をしたためた。

一気に脇差しを腹に突き立てる。熱い痛みが前身に痺れるように駆けぬける。横一文字に刃をはらう。激痛に眼が眩む。眼前を呆けた信雄に重なって、嘲笑う猿面顔の秀吉が浮かんで哨えた。

「おのれ、憎き秀吉め!」

憤怒がこみあげ、思わず傷ついた自らの腹から腸を掴むと、床の間の梅の掛軸に投げつけた。

豪気なお方よ。お痛わしや。両手をつき身体を震わせた牛一の眼から一筋の涙が零れおちた。

天正十一年五月二日、信孝二十六歳であった。

その後、織田家は没落、秀吉の天下となる。晩年の秀吉は、信孝の怨霊を畏れ、信孝の霊を弔うべく寺領百九十石を大御堂寺に寄進した。

文・本美信聿(郷土史研究家)



織田信孝の墓は野間の大御堂寺(大坊)の源義朝墓廟の一画にある。

安養院

信孝自害の間は野間大坊南の安養院にある。血染の墨梅図、自刃の短刀、辞世の歌が残る。安養院は荒廃した持蓮坊を太田牛一の子孫が再建したものである。

太田牛一は密かに大野(常滑市)の海音寺で信孝の葬儀を営んだ。信孝像を彫り生前の信孝を偲んだという。信孝像は火災で焼失、位牌のみが残る。太田牛一は後に織田信長一代記「信長記」を著した。なぜか信孝の最期まで記していない。