知多半島の山車  
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からくり人形/人形作者

 

「からくり人形」
■カラクリの歴史は古代エジプトより
■和時計の元祖は尾張から
■からくり人形には神が宿る
■尾張のからくり人形
■知多におけるからくり人形の始まり
■宝暦頃のからくり人形
■大野のからくり
■人形浄瑠璃が今も上演されている
■前棚で演じる三番叟人形
■山車からくりにも時代の変遷が
■からくり人形作者たち
 初代玉屋庄兵衛
 竹田寿三郎
 竹田藤吉
 鬼頭二三
 初代隅田仁兵衛
 二代目隅田仁兵衛
 竹田源吉
 五代目玉屋庄兵衛
 土井新三郎
 六代目玉屋庄兵衛
 七代目玉屋庄兵衛
 地元のからくり作者
■南吉と三番叟

 

  竹田源吉

 大阪の竹田近江の門弟であったという。名古屋の門前町で竹田屋という屋号で人形や細工衣装を専業としていた。知多地方にも多くの作品を残している。亀崎石橋組青龍車の布ざらし人形は弘化2年(1845)の作。美浜町上野間越智組の浄瑠璃からくり人形は安政5年(1858)8月に源吉より36両で一式購入したことが記録にみえる。
 竹田源吉の作品は現在でも多く演じられており、名古屋市筒井天王祭りの神皇車の武内宿弥人形は安政4年(1857)、広井八幡祭りの紅葉狩車の更科姫人形(鬼女)は弘化4年(1847)の作。
 源吉は幕末にかけてのからくり名人であった。中でも紅葉狩車の面変わりは、更科姫の高貴な美女が一瞬にして鬼女と化すからくりは文楽のガブをからくりに生かした作品である。

  五代目玉屋庄兵衛 

 本名の姓を荒川という。玉屋庄兵衛については、小牧市中本町に文政2年(1819)10月13日に病死したことが記されている。これは二代目かと推測される。その後の三代、四代については定かでない。四代目は大須万松寺前にすんでいたとの記録もあるが、これは五代目または六代目と思われる。また現在の七代目を九代目とするものもある。これは玉屋庄兵衛の名跡は代々世襲されてきたわけでなく、優れたからくり人形師が玉屋の名を継いだためにおきたものであろう。四代目玉屋庄兵衛においては内海吹越の逆立ち唐子の太鼓打ちと、同じ内海岡部の蓮台で逆立ちする唐子人形があり、文政頃(1818〜29)四代目によって作られたものと推測される。
 五代目玉屋庄兵衛になって玉屋の名が確実に事跡にみえる。東海市横須賀公通組の唐子人形は嘉永6年(1853)の作である。同じ横須賀の北町組の逆立ち唐子、蓮台押し唐子、麾振り人形は安政年間(1854〜59)に作られた。小牧市聖王車の離れからくりの唐子、麾振り人形は安政2年(1855)の作。亀崎中切組力神車の前棚人形猩々の舞は安政頃(1854〜59)。同じ西組花王車の神宮人形は天保頃(1830〜43)の作であるという。
 明治21年(1888)に亡くなっている。その制作年代から、かなり長寿であったろう。また、四代目と重複しているところもあるかと思われる。
 昭和6年(1931)に亀崎東組宮本車の湯取神事の人形をつくったのが荒川宗太郎である。五代目の子か、そ均血を継ぐものであろうか。

  土井新三郎 

 名古屋の上前津に居住じ花新を屋号とした。からくり人形については石田仁兵衛、竹田源吉に学んだといわれるが、石田は隅田の誤りであろう。
 幕末から明治にかけての細工師で仕掛物を得意とした。からくり人形制作を本業としたわけではなく、細工物、花かんざし、袋物、芝居舞踊の小道具類から、絵師の仕事まで手がけた。それだけ器用であったのだろうが、当時はからくり人形だけでは暮らしていけなかったためもあろう。
 東海市横須賀里組の文字書き人形が土井新三郎の作といわれる。文化年間(1804〜17)に作られたと伝うが、新三郎は明治43年(1910)8月14日に九十八歳とういう長寿を全うしている。このことから、制作年代はもっと後年か、新三郎が人形を修繕したかのどちらかであろう。
 新三郎の作は、犬山祭り名栗町絳英の菅相丞、時平、唐子は明治3年(1870)、羽島市竹ヶ鼻祭りの布袋人形は明治37年(1904)などがある。
 新三郎の逸話として、毛細工の鷹を依頼され、出来た作品が本物そっくりで、鶏を前に置いたらビックリして逃げだしたという。

 六代目玉屋庄兵衛 

 本名を高科正芳。元は尾張藩士であった家に生まれた。明治21年(1888)五代目没後に作品がみられるようになる。五代目とは血の繋がりはないようで、玉屋庄兵衛の名は秀れた細工師が継いだ。
 知多半島においては六代目玉屋庄兵衛は山車の前棚人形においてその技を発揮する。現存する三番叟らの前棚人形の過半数は六代目の作による。それも大正時代に集中していることは、山車曳き回しの形態が変化しつつあったことを意味するものであろう。
 六代目の前棚人形を列記れば、三番叟人形が岩滑新田平井組神明車、岩滑西組御福車、下半田北組唐子車、協和砂子組白山車、常滑の奥条常石車がある。巫女舞人形は下半田南組護王車、常滑北条神明車。巫子人形は常滑山方常山車。太平楽人形が下半田祝鳩車。桃太郎人形が常滑保示保楽車がある。他に半田市の三番叟人形に六代目の作と思われるものがある。
 以上のように半田市と常滑市に集中して前棚人形が制作されたことは、この頃に山車の改造や新造が相次ぎ、隣町より囃子が伝え教えられていった。また各町内で山車を競いあったことの影響もあろう。
 常滑山方の常山車は大正8年(1919)六代目玉屋庄兵衛の作であるが、胴の作者は喜田兼吉という。六代目は人形を彫らずに、荒川宗太郎、内藤金次郎、喜田兼吉などの腕のよい彫り名人がつき、彼らに彫らしたという。

  七代目玉屋庄兵衛 

 本名は高科正守。父は東京小石川で山車造りを営む家で生まれ岩次郎といった。大正12年(1923)六代目玉屋庄兵衛に養子縁組。この年に正守は生まれたのであった。だが翌年岩次郎が七代目を継ぐのを待たず若死してしまう。さらに昭和5年(1930)六月には祖父の六代目玉屋庄兵衛が亡くなる。九月に七歳にして七代目を継ぐことになる。この時から終生からくり人形師として歩む宿命を背負うのである。からくりの技術を教える師としてなく、上野美校へ通うなど独学で知識を得、全国各地のからくり人形を自らの眼で確かめ、肌に触れるところから研究を始めた。自分の手でこつこつと築きあげた本物の職人芸を身につける。
 名人と称される人々は生まれながらに備わった才能と、人の見えぬところで、血の滲む努力を繰り返しているものである。
 七代目玉屋庄兵衛は古今のからくり人形の名作の復元につとめてきた。山車倉に死蔵している悲運の人形に、生命の息吹を吹き込むことを生涯の仕事としてきた。今日の祭りにおけるからくり人形の華やかな隆盛は、七代目の功績である。彼によって尾張の山車からくりが注目されるにいたったといって過言ではない。
 日本で唯一の木偶師七代目玉屋庄兵衛は健在だが、後継者として八代目(正夫)、庄次という良き子息に恵まれ、新たなからくり人形研究に意欲を燃やしている。

  地元のからくり作者 

 坂井の浄瑠璃からくりは地元の漢学者伊東桐斉が戯作し、伊東家出入りの大工斧次郎というものが人形を作ったという。
 河和中組の三番叟が変じて社殿となる、「社変わり」も地元の大工による作品でないかといわれている。山海に残る浄瑠璃からくり「小鳥丸夢ノ助太刀ノ段』は上野間越智より山車と共に購入されたものだが、それに明和7年(1770)5月作落島(越智)作者丈助とある。丈助は上野間の大工であろう。これと類似するため同作者ではないかとみられる人形に内海の北脇で上野間南組(四島)より山車と共に購入されたものがある。上野間で新しい山車と人形が製造されたために他村に売却されたものであろう。
 からくり人形制作が初期的段階で、名もなき地元の大工により作られていたという事実は、知多半島の職人技術がかなり高度のものであったとの証明でもある。四周が海のため海運が盛んで、世界各地に漂流した船乗りも知多の者が多い。初めて和訳聖書に協力した乙吉、岩吉、久吉。「船長日記」で有名な重吉など優れた船乗りを輩出している。彼らがアメリカやカナダで奴隷になるところを救われたのは、その教養の高さ、文字を書けること、物の理解力にあった。船乗りでさえこの知識があることは外国人には驚きであったという。
 尾張は文化が高く、また知多半島が豊かであった証拠ともいえよう。
 これだけ村の隅々まで祭りがあり、山車が曳かれ、からくり人形が舞う土地はめったにない。知多に住む我々は、此の文化遺産をさらに新たに大きなものへと創造していく使命があるといえよう。

 
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