知多半島の山車彫刻  
前のページへ 次のページへ  【知多半島の風トップへ】
山車彫刻

 

「山車彫刻」
■建築における装飾彫刻
■山車彫刻の流れ
■彫物師の系譜
 ・立川一門
 └ その他の立川流
 ・彫長一門
 ・瀬川一門
 ・その他の彫刻師
 

■彫物師の系譜 
 〔立川一門〕

 初代立川和四郎富棟

 初代立川和四郎富棟は信州諏訪の人。先祖は、天正年間(一五七三〜九一)日根野織部之正が高島城を築いた時に桶職として仕え御用達となる。富棟の父は塚原忠右衛門泰義といい、桶職で八俵一人扶持を給していた。
 富棟は延享元年(一七四四)に生まれる。宝暦七年(一七五七)家業の桶職を弟の忠七に譲り江戸に出る。幕府の大工棟梁立川小兵衛富房につき建築技術を習得、立川姓を名乗ることを許された。さらに宮彫師中沢五兵衛に師事し彫物を学ぶ。
 日光東照宮造営以来、装飾彫刻は衰退一途をたどったが、富棟はこれまでの静的で平板な彫刻から、素朴ななかにも力強い、今にも動き出さんばかりの唐獅子や龍などに代表される迫力ある立川流彫刻の作風を破立した。
 諏訪大社下社の秋宮の総建築を任せられ、地元の信州で名声広まる。その後、善光寺表門と厨子、遠州秋葉山本宮らを手がける。立川一門の名を天下に知らしめたのは、静岡浅間神社の造営工事による。享和二年(一八〇二)から天保一四年(一八四三)の四十一年に及ぶ大事業であった。富棟は工事開始後数年にして亡くなるが、嫡子二代和四郎富昌が遺業を引き継ぐ。富棟はこの功により内匠号を賜る。
 駿府での生活は立川一門に多大な影響を与えた。日本最大の交通機関である東海道は参勤交代の大名、文人墨客、商人が往来する。駿府は東海道筋の要衝であった。多くの人々との交流は、名人和四郎の名とともに、立川流彫刻を全国に宣伝するにもってこいであった。また絵師との交遊が後の立川流彫刻の特徴である、絵画的意匠の下絵を描くことに繋がる。特に駿府の絵師大石周我の影響は大きかったようだ。
 文化四年(一八〇七)十二月九日、父以上に才能溢れた富昌にすべてを託し、立川流の確固たる礎を築き世を去る。六十四歳。 △上へ

 二代和四郎富昌

 二代立川和四郎は富昌という。天明二年(一七八二)生まれる。幼名を和蔵という。卍斉、萬斉、綾彦高斎などの号がある。
 富昌は彫刻においては初代を凌ぐものがある。娘婿の立川常蔵昌敬とともに立川流彫刻の頂点を築く。富昌は気性の激しい人であったようだ。作風にそれが現れている。亀崎山神車の力神などは、気迫漲らせ渾身の力をこめ山車全体を支えるかのようだ。その力強さは他の追随を許さないものがある。初代彫常が、この彫刻を見て開眼、立川流彫刻を踏襲するほど惚れこんだ話は頷ける。
 前述したが、亀崎の成田新左衛門が遠州秋葉山で山門の力神像を見て、富昌に山車彫刻を依頼した。文政十年(一八二七)娘婿の昌敬を伴って亀崎を訪れる。中切組力神車の建造にかかるが、地元の宮大工岸幕一門に山車本体の制作を任せる。彫刻の素晴らしさをより効果的に見せる、彫物を中心とした山車を造りあげる。
 天保八年(一八三七)亀崎神楽車、同年頃に高山市二之町五台山屋台の飛獅子を彫っている。弘化三年(一八四六)亀崎花王車、上半田福神車、成岩旭車、また文政頃に成岩南車などの山車彫刻を残している。
 山車彫刻ではないが、亀崎秋葉神社本殿を天保十二年(一八四一)に造っている。一メートル二七センチという小さなものだが、山車彫刻の豪華さと一味違った繊細な調和のある美がみられる。
 立川一門の代表的な建造物は静岡浅間神社であるが、初代和四郎の指揮のもと一門が総力を結集して造営にあたった。その主なものは富昌の手による。
 富昌の得意な彫刻はすなわち立川流得意の彫刻となる。その内に「粟穂に鶉」がある。神部神社の「粟穂に鶉』は俗に「鳴うずら」といい、最初は鶉の彫物であったが、夜な夜な鳴いて困るというので粟穂を彫り足したところ鳴きやんだという。ほかに「唐獅子」や「子持龍」や「松に鷹」などが立川流得意の彫刻である。また豪快な「波涛」は葛飾北斎の「富獄三十六景」を想起させる。下半田唐子車の「手長足長」などにもみられるように立川流彫刻は葛飾北斎の影響も大きいようだ。
 富昌は父富棟と同じく内匠号を賜る。さらに松平楽翁(定信)に激賞され、その推挙で信州高島藩の諏訪家に召抱えられる。富昌は楽翁公の厚い懇意をうけたようで、信州は寒いからと自ら着ていた羊毛の着物を脱いでこれを賜う。また鶴翁の号と白銀五十枚を給る。
 安政三年(一八五六)十一月五日、塩尻の永福寺朝日の建築で、欅の大木を伐り倒した際の事故で不慮の死を遂げる。七十五歳。永福寺に「立川二代和四郎富昌氏終焉之地」の碑が建つ。 △上へ

 三代和四郎富重

 文化十二年(一八一五)に生まれる。富昌の長子で富重という。幼名は和蔵。彫刻技法においては弟専四郎に譲るが、社寺造営には父富昌に継ぐ働きをする。
 山車彫刻においても数は少ないが三代和四郎の彫痕をみることができる。安政六年(一八五九)の乙川宮本車壇箱「竹林の七賢」、また源氏車壇箱と脇障子「風神雷神」。美浜町布土護王車の力神がある。嘉永四年(一八五一)には養老町高田西町の山車を、弟の専四郎と共に彫刻を彫っている。さらに文久二年(一八六二)に桑名市西船町の祭車の彫刻がある。
 明治六年(一八七三)没。五十九歳。
 四代和四郎は富重の子富惇が継ぐが初代以来の立川流彫刻は衰退を辿る。 △上へ

 
<前のページへ 次のページへ>

-2-