知多半島の山車  
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山車まつり

 

「山車まつり」
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■南知多町の山車まつり

 南知多町には各地で独特の祭りが行われている。豊浜のタイ祭りや師崎の左義長は全国的に有名だが、山車祭りは意外に知られていない。知多路に春の足音を告げるように祭囃子が風に乗って流れてくるのが南知多町の山車祭りである。

 (内海)
 内海谷十一ヶ村(吹越、岡部、中之郷、北脇、馬場、西端、東端、利屋、名切、楠、内福寺)といい、内海だけで十一もの村がひしめきあっていた。各村ごとに祭礼が行われてきたが、山車祭りを行った村も多い。

 (吹越)
 吹越の山車は一回り小さい。狭い路地を曳き回した古きよき時代を髣髴とさせる山車である。楫や壇箱の位置も一段低く、威勢よく激しい曳き回しを見せ場とする現在の山車祭りに適さない山車である。山車全体が漆で塗られ彫刻も少ない。江戸時代、天保以前の山車の姿を推測させるものがある。

 (三郷祭)
 馬場、中之郷、北脇地区の祭礼は入海神社で行われ三郷祭りと呼ばれている。馬場から山車、中之郷は手振り奴、北脇よりは棒の手が奉納される。
 馬場の山車は蛇車といい、上山より蛇のからくりが登場する。脇障子や壇箱に彫刻を欠くが、台輪に波模様が刻まれているのが特徴である。
 北脇でもかっては山車が村内を練った。だが、山車が大きく他村の妬みをうけた。道が狭いため山車の曳き回しに難儀した。追綱を張るのは養子の役であったが、青田に入って追綱を引かねばならず、北脇村へ養子へきた者たちから苦情がでた。などの理由で山車は東端へ譲ってしまった。この山車売却の理由は興味深い。当時の山車の曳き回し風景が窺える。北脇には、現在はからくり人形と囃子の道具が残る。

 (東端)
 東端には内海の豪商前野小平治寄進の豪華な山車があったが、明治十年(一八七七)有松村(名古屋市)へ百円で売却された。その後、青年達により山車復活の要求がある。当時、北脇村で他村より古い山車を買ったが、大きすぎて村内での曳き回しができず解体されたまま放置されていた。それを購入したのが現在の山車である。
 一時、山車祭りも休止されていたが、昭和五十五年に復活した。輪が外輪式で、上山も巾広く大きい。前棚の奥行きが少なく狭い。山車全体が漆塗りで彩色が施されている。飾り金具もふんだんに使用されており豪華な山車である。元はどこにあった山車なのか、または前野小平治寄進の山車との関連など調べてみたい。

 (岡部)
 力神が壇箱で担ぐ知多型の山車である。内海の山車はいずれも上山でからくり人形が演じられるため、上山は高く上げられる山車が多い。

 (内福寺)
 岡部と同じ壇箱に力神の彫刻がある。上山ではチャッパを叩く唐子と石橋獅子を舞う唐子のからくりが演じられる。内福寺村の氏神の八幡社に祭礼車再建の棟札が残る。萬延元年(一八六〇)十月二十日に再造されている。内海馬場村の大工名が連なり、内海の山車が地元の大工によって建造されたことを知る貴重な手がかりとなろう。

 (山海西村)
 山海の入口にある西村でも山車がでる。伊勢湾台風で山車が壊れていたため休止されていたが、昭和五十九年の秋祭りで復活した。隣の松原地区ではからくり人形による人形浄瑠璃が演じられていた。

 (豊浜)
 豊浜の祭礼はタイ祭だけが有名になっているが、タイ祭は明治以後に行われるようになった祭りである。
 大正十三年(一九二四)頃の写真に、鳥居の御仮屋前の海岸で知多型の山車と干石船型山車が並ぶ光景が写っている。豊浜の祭礼は中村は山車、半月は舟車、鳥居と東部は鯛となっていた。半月の舟車は明治十一年(一八二七)に隣の中洲より購入したものだが、昭和四十七年に痛みが激しく、山車とともに休止されたままとなっていた。現在は郷土資料館に保存されている。山車についてはいまのところ資料がないので由来はわかっていない。

 (師崎)
 羽豆神社の祭礼は毎年旧暦八月十四・十五日に行われる。大名行列(道中奴)といい、手振り足振りもおかしく踊るのがコツで、それがなかなか難しいのだという。
 手振り奴を先導として神輿の渡御とともに、的場、栄、荒井、鳥西、鳥東地区より造花で飾られた山車がつづく。昔は干潮時に海浜を渡御したので潮時祭と呼ばれた。夜は盆踊りとなる。かっては伊勢神宮より能、大野宮山寺と山海岩屋寺からは管弦楽や古式相撲が演じられ奉納されたものだという。古い若衆規約に「山車に就いての心得」があり、若衆の総責任者を小頭といった。こういった名に戦国時代の水軍組織を思わせるものがある。
 師崎祭りの山車は、半田で盆踊りにでる花車に近いものだが、その歴史は古い。荒井の山車上に飾る馬廉(ばれん)の受板に元禄六年(一六九三)と書かれている。馬廉は戦国時代の戦場の指し物の名残で、纒の飾りのことである。

 (大井)
 大谷浜組の山車は安政二年(一八五五)に建造された古い山車である。毎年夏と秋の祭礼に町内を曳き回されてきたが、昭和三十年後に休止されていた。昭和六十三年の津島神社の夏祭りに三十年ぶりに復活する。
 この山車は横松より岩滑新田の平井組へ、さらに下半田の東組へ売られ、大正十四年に大井に譲られた。横松でも、宮大工の江原家が、山車建造の支払いを旧車でもって充てられたものを、しばらく持っていて岩滑新田に売ったものと思われる。一番最初にこの山車を保有した地区は定かでない。
 時代の流れで木目を生かした素木(しらき)の彫刻や、新しく大型の山車が祭りの自慢となっていき、漆や金箔で塗られた古く小さな山車は仏壇車といわれた。各所に転売されていった大井の山車に、山車の運命をみる。だが、現在は古いものほど文化財的価値があり、各地の祭礼で山車祭りが盛んに復活しつつあるのは、古い山車の再評価への認識によるものであろう。

 
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