知多半島の山車  
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山車まつり

 

「山車まつり」
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■半田市
■武豊町
■美浜町
■南知多町
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■知多市
■東海市
■夏祭りは「女のまつり」

 

■美浜町の山車まつり

 美浜町では布土、河和、上野間地区で山車祭りが行われる。春を告げる祭りとして緑が芽吹く四月の第一日曜日に行われている。かっては神武祭に祭りがあった。三地区とも江戸時代からの山車を有す。上野間では人形浄瑠璃が演じられる。別に小野浦地区では千石船の山車が村を練った。

 (布土)
 布土祭りには三台の山車がでる。花の寺で知られる心月斎より神明社へ緩やかに山車は練る。土手に菜ノ花やタンポポが咲きのどかそのものである。
 上組護王車は明治十四年に下半田南組より購入したもので、この時には内海より雨覆いも買っている。現在でこそ、雨が降りはじめるとビニールですっぽり山車全体を被せるが、当時は油紙を張りあわせたもので山車を覆った。雨覆いは貴重なものであったろう。
 平田組天王車は一回り小さく、高さ約五メートル、重さ二トンしかない。伝承としては布土城主水野藤十郎が村民に寄進したとの伝えがあるが、布土城主は藤二郎忠分で於大の方の弟にあたる。忠分は天正六年(一五七八)摂津国有岡攻めで戦死している。この山車は明治の初めに大谷村の奥条より購入したとの伝えが正しいようだ。内海吹越の山車とともに知多型山車初期の形を留める山車である。
 大池組山王車は、楫棒の上に板を敷詰め仮設の舞台が造られる。そこで子供三番叟が演じられたという。大正になって、前棚で三番叟らのからくり人形が各地で登場するが、それ以前、または江戸時代位山車前部の楫棒を利用した舞台が設けられた可能性もありそうだ。こういった事実が民俗芸能を考える重要なヒントになってくる。

 (河和)
 河和では、かって南、中、北組より三台の山車が天神社に集まった。明治二十二年に南組の山車が火災で消失、三十年に再造されている。この年には北、中組とも山車の大修復が行われた。
 中組の山車は明治三十六年(一九〇三)に乙川南組より購入されたともいわれ、この山車には宝暦五年に岸幕善兵衛の建造と記されている。とすれば『乙川祭礼山車絵図』が描かれた前後に造られたこととなる。
 南組は山車曳き回しが廃止され神輿を担ぐこととなり、現在は山車蔵に山車が納まったままになっている。亀崎田中組の古車といわれる山車で、このあたりの山車購入や売却らの情報は伝聞が多く情報も混乱する。山車そのものの形と内容を調べ、追跡調査していくしかない。
 北組の山車は乙川の山車に匹敵する、知多半島でも最も大型の山車である。

 (上野間)
 野間七ヶ村(細目、一色、柿並、北奥田、南奥田、上野間、坂井)の産土神の野間神社に二台の山車が奉納される。祭神は宇摩志麻治命といい物部氏の祖神である。この地方と物部氏との関係を窺わせる。
 上野間の越智組と四嶋組の山車祭りの起源は古く、元禄年間(一六八八〜七〇三)に始まるという。現在の山車は再造されたものだが、立川一門の手によるといわれている。立川流の弟子の一人に上野間出身者がいる。その関係も今後調査していきたい。

 (小野浦)
 小野浦は和訳聖書発祥の地として知られる。昔より小野浦から優れた船乗りを輩出した。それに相応しく祭礼には干石船型の山車が登場する。昔は村を分ける川を挟んで東と西で山車と太鼓囃子で競いあったものだという。またヤッコ行列も祭りの先頭に登場した。
 東組の山車は名古屋の船山車を模したもので八幡車という。天明二年(一七八二)に内海東端の船大工富吉兵衛によって建造された。名古屋の船山車とは若宮祭に出る末広町の黒船車のことで、延宝元年(一六七三)に造られ、さらに明和九年(一七七二)に野間の船大工三太夫によって再造された。東組の山車は慶応二年(一八六六)に再造されている。一時船山車の曳き回しは休止されていたが、最近になって浜祭りとして復活した。
 西組の山車は明治の初めに他地区に売却されている。

 
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