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■阿久比町の山車まつり
昔より「萩左官に横松大工」といわれるように、横松大工と山車の関わりは深い。武豊町大足の蛇車に寛政八年、岸幕善兵衛の名がみえる。岸幕家は古くより堂宮大工の家柄で、この地方の神社仏閣の造営に携わってきた。横松には別の堂宮大工に江原家がある。明治から大正にかけての山車建造の多くは、江原新助率いる一門の手による。亀崎の力神車建造が当時名人といわれた立川和四郎一門によって行われた。この時に山車制作を任せられたのが横松の大工である。町内を曳き回すにバランスとれた優美な山車に彼らは驚いたであろう。横松大工が立川流の山車制作技術を修得したことが、知多の各地で山車を競いあうように建造することに繋がるのである。
(横松)
多くの名人大工を生んだ横松村だが、山車が祭礼に出るようになったのは明治の初めのことである。それまでは駆け馬が行われていた。狭い村内の道を練った横車も、伊勢湾台風以来休止されたままにある。現在は子供山車が制作され、子供会によって曳き回されている。
(萩)
萩の祭礼は大山祇神社より狭く急な坂道を勢いよく下り、そのまま急に楫をきる。スリルがあり見せ場となる。
大山車は明治四十四年(一九一一)に五五三円八六銭で建造された。翌年には上山が江原新助によって造られたが、その代金は旧車でもって充てられた。それ以前にも山車が存在じていたことが知れる。
(宮津)
かっては衣浦湾がこの辺りまで湾入していた。この地は熱田社領で港(津)として栄えたことから宮の津といわれたという。宮津は熱田神宮ゆかりの熱田神社を氏神とする。例祭に二台の山車が揃う。「南車永代帳」によれば、宝暦より天明(一七五一〜八八)まで山車祭りは中断されていたが、天明年間に再造されている。宝暦以前にも山車が存在したのである。その後も数度にわたって中断期間があったが、現在は春祭りに山車が威勢よく町内を練る。
(太古根)
植大は植村と太古根村が合併してできた地名である。その太古根村より山車が一台出る。古くは定かでないが、昭和二年からの記録によれば、途中に戦争や災害のたびごとに山車曳き回しが中止されている。
阿久比町の旧村の神社境内に常舞台という建造物がある。昔は村芝居や旅の一座が芝居公演をおこなった建物で、太古根の八幡社には回り舞台装置が設けられているという本格的な舞台がある。
(矢口)
矢口の祭礼では、昭和五十六年に子供中心の祭りとなり、樽神輿が担がれた。翌々年には子供山車が建造され、上山には武者人形を飾るという立派な山車となる。
これからも、子供を中心とした祭礼が各地で見直されてこよう。現在の山車のない地区でも、比較的に費用のかからない子供山車なら造ってみようとの声があがるかもしれない。伝統ある山車祭りを復活しようとの気運がつづくなかで、子供とともに楽しめる子供山車は、新しい山車祭りの傾向として注目したい。
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