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■大府市の山車まつり
大府市の祭りは、長草天神社の「どぶろく祭り」が有名である。他には駆け馬を中心とした地区と、山車の曳き回しを行う地区とがある。山車祭りにしても、横根藤井神社の山車以外に、実際に見る機会を得ず、また資料も乏しいため、どの程度の山車があるのかもわかっていないのが実情である。
(横根)
藤井神社は鎌倉街道に近く、藤の木の下に泉が湧出し旅人の恰好の休憩所であった。そこに小祠が祀られたことにはじまる。
横根の山車は、伝えによれば江州長浜より譲り受けたものという。だが長浜の山車とはまったく違ったものだ。別に寛文八年(一六六八)に山車を建造ともいう。こちらの方が正しいと思われる。
横根の山車に関してこんな話も伝わる。東浦町の藤江の藤井神社の祭礼に、雨乞いの風習を残す「だんつくの舞」が演じられる。この古舞面は横根の藤井神社より譲られたものという。昔、横根近辺で疫病が流行し死者が多数出た。そのために例年神社に奉納されていた「だんつく舞」は休止されていた。代わって寛文八年に山車が建造され、舞面は例祭に使用されずに蔵に放置されていた。それを享保七年(一七二二)に藤江村の者が譲り受けたものという。
藤井神社の祭礼は、かっては八月朔日(はっさく)祭といい旧八月一日に行われてきた。八朔は昼寝の終わり夜なべの始めといい、農家の人々にとって遊びじまいの日であった。お祭りでパーッと遊び、つぎの日から仕事に精出したものである。
例祭には寺田、中村、石丸の三地区より神社まで山車が練る。明治末までは北尾の山車も参加していた。三台の山車の内、中村の山車は天保年間(一八三〇〜四三)に五十両で修復されている。山車そのものは高さ六メートル、重さ二・五トンという旧型の山車で、楫棒が後楫しかないのが特徴だ。
(北尾)
大府市の束北に位置する北尾の山之神社の祭礼にも古い山車がでる。寛政十二年(一八○○)に建造されたもので、安政四年(一八五七)の大修復で費用が九十二両一朱銀四十五匁かかったことが記録にみえる。以前は藤井神社の祭礼に参加していた。横根の三台の山車とともに大府市文化財に指定されている。
(大府)
大府市の中心にある熱田神社の例祭は、現在は駆け馬(御馬頭)行事が行われている。以前は北島、南島、江端の三地区で山車曳き回しが行われた。大正の頃には、村祭りの余興に村相撲も行われ盛大であったという。ある年の祭りで、若衆が帽子を破って山車を曳いたためか大雨が降り被害を被る。以後の祭礼に山車は廃止されてしまったという。
北島地区では、かっては立派な山車が村内を練ってまわったが、若衆仲間で喧嘩となり、それが原因で山車は緒川村(東浦町)へ売ってしまった。その後に小型の山車が造られたが、それも昭和四十年頃に出なくなる。
江端でも昭和の始めに緒川に山車を売却したと伝う。大府の山車がどんなものであったかは現存しないためにまったく不明である。
(木ノ山)
秋祭りに宿元の公民館より子安神社まで山車が曳き回されるという。また木ノ山の祭りには猩々の人形が出たという。
(森岡)
大正に入って山車が建造されたが、その後に廃止された。昭和四十六年に名古屋の彫刻師によって小型の山車が造られ、オート三輪を改造した基台の上に乗せ、子供中心の祭りとして町内を練る。
東浦町の山車まつり
東浦町の祭礼では、ほとんどの地区で駆け馬行事が行われている。また緒川、生路、藤江では渡御に館を引いてつづく。館は海部郡から名古屋南部や知多半島に拡がる祭りのひとつで、元は伊勢大神楽と獅子舞が全国を巡業したときに、獅子頭を安置して運んだものという。獅子館とも呼ばれた。知多半島の館は彫刻などで立派に飾られた神座のものもある。曳き回しを主体とする山車とは異なるため今回はとりあげない。だが、知多型山車の特徴である前山は、館をそっくり山車前部につけた形に似て、知多地方の山車の原形に影響を及ぼしたと思われる。
因みに、館は屋形ともいわれ、東浦町以外にも半田市で有脇、向山、新居、平地、岩滑新田、成岩、板山で十二基の館があり、阿久比町では坂部、矢口、高岡に、知多市寺本では中島、中小根、西平井、杉山に、美浜町の矢梨などに館は残っている。
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